*きままなひとりごと*

ゆるりとすきなことを呟いています。

空想組曲「小さなお茶会。」感想というか考察

12月5日から始まったこの舞台、昨日13日に無事千秋楽を迎えた。
ネタバレすると面白くないなと思ったので、普段はガンガンネタばらしをメモアカでやっているのだけれど、これはせずに今日まで黙っていた。
わたしは初日と次の日の2回を見させていただいたけれど、とても興味深い考察したくなるお話だったので色々と考えてみたことを呟いたのだけど、せっかくなのでこっちにもそれをまとめておく。
多少加筆修正はしているものの、呟きなのでまとめるといっても、内容はまとまってない散文なので、あらかじめご了承いただければ。

そもそも昨年の「眠れない羊」も結末にぞくりとした。
じわりじわりと珈琲にミルクが混ざっていくかのように、観劇をした後でゆっくりと人の隠された怖さや弱さや苦しさがわかってくるような作品だった。
だから今年の「小さなお茶会。」に町田さんが出るとなった時にこれはまた素敵な作品を見れそうだぞ、と思っていた。
結果的には去年の「眠れない羊」が事務所での最後の仕事になった町田さんが、また同じ時期にほさかさんの舞台に出演するというのが、とても嬉しかったのもある。
(そしてほさかさんと町田さんは同じ年、ということはわたしも同じ年なので勝手に同級生のような気持ちで、応援せねば、と思っている。)

遠征のため、初日にしか日程的に見れなかったのだけれど、結果としては初日に見れて良かったと思う。
ネタバレや人の感想に左右されずに見ることができたのがとても良かった。
おかげでぐるぐると考え過ぎて寝不足で次の日に再びシブゲキに行くことになったけれど。


初日が終わった後、町田さんを好きな人たちのツイートでは「クズ男最高!」という言葉が飛び交った(笑)
これが最高に面白かった(笑)
みんなこういう町田慎吾好きなんだなと思った。
あの事務所にいたら中々見れないかもしれない、女性を髪を掴んで突き飛ばしたり水をかけたりなDV男の役を演じる町田慎吾はよく知っている彼のようでいて、彼ではなかった。
町田さん演じるあっくんことあきら、は女に暴力振るうし精神崩壊してるから彼女に浮気現場見せつけて痛めつけるっていう最低なクズ男なんだけれど。
目が死んでたり、いっちゃってんなーっていう狂気みたいなものが、チャラ男から漏れた瞬間に、ものすごくはっとさせられた。
当然、見た目はチャラいけど(失礼)優しい町田さんが演じることで、何かその裏にあるのではないかと思えるような気もした。
実は何か過去があったのではないかと思ってしまう。
町田さんの演技は憑依系で役を生きてるんだなと思える瞬間が多々ある。
決してスバ抜けて上手い訳ではないし発生や声のトーン等、きっと100人が見て100人が良い役者だとは言わないと思う。
それでも彼が演じると役の向こう側に何かあるように感じる。
そこが彼の芝居が好きなところ。
その人の人格が見えてくるというか、『町田慎吾じゃなくてあきらがそこにいる』気がするのだ。
もちろん舞台俳優として長く立っている方々には適わないかもしれないけれど。
そのための努力をきちんとしている彼のことが、やっぱり好きだと思った。

この物語の主人公は最初はあつしだと思っていた。
けれど、誰もが主人公だと終わった後に感じた。
あつしと園美の恋物語ではなく、あきらと園美の話でもある。
あきらと園美はとても似ている。
相手から嫌われることを恐れてお互いを傷つけて、自分自身も傷つけている。
あきらは自分に自信がないからチャラチャラと上辺を着飾って、相手を傷つけることで束縛をして自分を深く深く刻み込む。
忘れられないように、置いて行かれないように。
あきらはきっと恐れている。
自分と同じで狂っているのだと決めつけて園美を自分の腕の中に、檻の中に閉じ込めて離そうとしないのは、そうしておかないとまた一人になってしまうから。
あきらは昔何かあったのかもしれない。
一人になることが怖くて。離れていってほしくなくて。
だから、身体への暴力も言葉での暴力も、浮気を見せつけるのもみんな、彼女が本当はとてもとても好きだからなんじゃないか。
昔一人きりになった経験が嫌で、今度は離れて行ってほしくなくて。
だから彼なりの愛情表現なのだやっぱりあれは。
周りにはおかしいといわれようとも。彼の愛。
そうしないと不安で不安でたまらない。
自分が優位に立つことで繋ぎ止めていた大事な園美に同じ手でやり返された時に、また籠の中の小鳥が逃げていくのかと感情が溢れて精神が崩壊してしまう。
取り繕うことをやめて、誰がいようとかまわず園美に執着する。
そして、園美はあきらに初めて目に見える形で反抗をする。
力の籠っていない平手打ちにはっとするあきらの表情。
今まで言葉ではもう嫌だ、この関係を終わらせようと言い続けた園美だけど言葉でしか反抗はしなかったから、本当は嫌じゃないんだろうとあきらは勝手に思い込んでいたのだ。
その怯える怒る様子すらも好きだったから。
自分にしか見せない表情だったから。
けれど平手打ちしたのは知っている園美じゃなかった。
自分がいないとダメな園美じゃなかった。
弱弱しい平手打ちは、緩やかな拒絶であきらには強い衝撃だった。
熱湯を浴び寒空の下ふらふらと出て行ったあきらはその後どうなったのだろう。
どこかの公園でぼんやりとブランコに座って遠くを見つめているような情景が目に浮かぶ。
死ぬことも生きることもどうしていいかわからなくなっていそうな、虚ろな瞳で。

そして、残された園美とあつしは幸せになるのかと思いきや、そうではなかった。
泣きながら彼を平手打ちした手で、チケットをあつしに返す園美。
あつしとの普通の幸せよりも、あきらとの歪だけれど二人取っては最上の幸せを選んだ園美も、結局は他人に依存しないと生きられない人間。
自分を好いてくれる温かい人よりも、自分に冷たくてもつらく当たっても自分がいないと生きていけない人を追いかけていく。
必要とされている実感が欲しかったのかもしれない。
あきらと園美はその後もきっと共依存で生きていくのだろう。
どちらかが本当に壊れてしまうまで。
もうとっくに壊れているのかもしれないけれど。
悲しいけれどどこか切なくて愛おしい2人。
個人的に好きなのはあきらが浮気相手を連れてきて、園美が普通のデートがしたいといった時。
「何が見たいの?」だったかな、映画を見たりしたいという園美に聞いているその優しい声のトーンと、椅子の背もたれに腕を乗せて座り、蹲る園美を見ているところ。
何かとてもきゅんときた。
とてもとても普通の恋人同士のようで。
本当はとても好きなのだ、あきらは園美のことを、と思えるような優しいトーンだった。
(個人的にここの町田さんがとても好き。恋するわーと思った)
あきらと園美の2人は本当に切ないというか苦しかった。
そこに愛があるのにうまく表現できないあきらが悲しくて。
それを感じ取りどれだけ傷ついてもその傍にいたいと思ってしまう園美が切なくて。
2人の未来がカフェオレのように甘ければよいのにと思った。

もう一人のあっくんことあつしも、ただの純朴少年ではないような気がした。
みどりはずっと後輩のあつしが好きだった。
興味はないと言いながらも彼の好きな映画を調べてレンタルで借りてみて、チケットも買った。
園美になんて本当は譲りたくないけれど、それがあつしの幸せならと受け入れる。切ない恋だ。
2回目の観劇で、彼の恋話を聞いているうちにどんどん表情が硬くなり悲しそうな瞳をする彼女に気付いた。
けれど恋に溺れた男は気づかない。もどかしい。
次に入ってきた人が珈琲と紅茶どちらを頼むか?賭けをする二人は最初は別々のものを選ぶ。
けれど最後にみどりはあつしと同じほうを選ぶ。
それはどこか『従順』という彼女の選択を感じる。
また頑張ろうと彼が言った。
「…恋とか?」と恋に破れた筈の男は、ひとつの可能性を突然みどりに告げる。
恋に不慣れだった男が、暴力でつなぐという恋の形と、恋の駆け引きを覚えてしまったのだろうか。
みどりが自分のことを好きだということに気付いたあつしは『もうひとりのあっくん』になろうと思ったのかもしれない。
あの好きな人を縛り付ける愛が幸せになるためには必要なのだと、勘違いしたのかもしれない。
そのわずかに芽生えた狂気に、みどりは気づいていないかもしれないけれどまだ自分の恋には望みはあると彼に『従う』のだ。
もしかしたら彼女たちは、あきらと園美と同じ運命を選んだのかもしれないとふと思った。
ハッピーエンドではなくあれは新たな狂気の始まりなのかもしれない。
そう考えるととても怖い。
あきらと園美の狂気に満ちた複雑な愛の形はバッドエンドに見えてハッピーエンドで、あつしとみどりのこれから始まる恋の話は、ハッピーエンドに見えてバッドエンドなのかもしれない。

作中作である「紅茶党の彼女」は何度もタイトルが出てくるけれど具体的にどんな作品なのかはわからない。
わかっているのは古い映画で、バリスタとその店に通う女性の恋の物語であること。
そして印象的なのは「頑張ってるんだから見逃さないでよ」というセリフとカップをソーサーの上に伏せる仕草。
カチャン、と音がするとそこは異世界になる。
マスターの妄想の始まりの音。
タイトルから分かる通り彼女は『紅茶党』なのでつまり『珈琲が好きなわけではない』。
けれどバリスタのいるカフェに通っている。
通常、ソーサーにカップをひっくり返すのは『もうおかわりはいらない』という合図。
であれば、「おかわりはいらないけれど来るのはあなたが好きだから」という思いが込められているのだとわたしは思っている。
映画の中のジャスミンも、マスターの妻も、言葉にはしないけれどその行動で「わたしだってそのくらい好きなんだからね」という想いを表しているのだ。
ある意味とても身勝手なのだけれど、男にはわかるまい、の秘めたる思いなわけで。
だからみどりもジャスミン(啓太の母親の方)もそれに憧れる。
素直には言えないけれど気づいてほしい思いがあるから。
でも園美はその映画を見たかったと言いながら、あつしの誘いを断るのだ。彼女はその女心には興味がないのだ。
誰もいないと知ると、りさこに嫌味を言う園美の豹変ぷりには最初はびっくりしたけれどあれが本来の園美なのかもしれない。
あきらと同じで自分が優位に立つことで自分を確立する、弱いから自分を強く見せようとする。
自分が優れているのだと優越感に浸る。
園美は『言葉では伝えられないけど好きなの』などという、可愛い恋愛にはきっと興味はなかったのかもしれない、口で言うほど。
結局はクズで最低だけれど自分じゃないとダメなあきらが好きなのだ。
気づいて欲しいのではなく、気づかれなくてもそばにいたいのだ。

ジャスミンに誘拐される啓太が相手が誰なのかとおびえる様子や驚く様子があまりないので、元々顔を知っていたと考えられる。
そして言葉の端々やジャスミンのまなざしから、元母親だとはすぐわかる。
でも謎の女が啓太の今の母親だとは途中まで気づかなかったなー。
ここも強気に見せながら隠された言葉を飲み込んでうまく言えない元母親と、言葉で理解させようとする頑張りを認めてほしい今の母親の間にいる啓太の物語がある。
喫茶店を中心に話は回っているけれど、啓太たちの物語とあきらたち4人の物語とマスターの物語は絡んでいるようであまり絡んでいないのかもしれない。(関係性がない?)
この辺りはもう少し考えてみたいところ。
特に啓太はとても大人ぶっている子供で可愛かったので掘り下げて考えてみたい。

そういえばマスターも少しおかしい不思議な人間だ。幻想が見える。
昔は珈琲は薬のようなものであったから珈琲を飲み続けている彼は少しエスプレッソ中毒になっているのかもしれない。
妻からの「好き」という言葉がないと不安だったから幻想を生み出してしまった?
でも最後の幻想は本物?本当の言葉を受け取れた?それもまた幻想なのか?
と謎のままだ。

もう一つはっとした言葉を思い出した。
最初のほうであきらが園美の真似をするときに「一緒だよ、ほぼ」って言葉を零す。
初回は気づかなかったけど、その言葉にとても重みがある気がした。
さりげない一言なのにそれまでのトーンとは少し違う声音で。
そうか、一緒なんだ、園美とあきらは。
違うように見えて、同じ類の人なんだ。
そう思うとやっぱりあの喫茶店に集まる人はもしかしたらみんな同じ、なのかもしれない。
普通に見えて普通じゃない。
でもじゃあ普通ってなんだ?っていう、ハッピーエンドに見えて全然カラッとさわやかじゃない捻くれた恋物語は、カフェオレでもココアでもミルクティーでもなくて、エスプレッソなんだ。ほろ苦さの残る。

まだまだ色々考えたいこともあるけれどこの辺で。
去年の「眠れない羊」の時も思ったけれどほさかさんの話はこういう単純なハッピーエンドじゃない感じがとてもお上手だと思う。
ベタな恋物語やお涙ちょうだいの物語は誰にでも書けるけれど(それをいかに面白くするか、はもちろん才能があるからできることで誰にも出来ることではないけれど)こういう複雑な、見た人によっていろんな解釈が生まれる作品は素敵だ。

来年DVDが届いたらじっくり珈琲を飲みながら見たい。