*きままなひとりごと*

ゆるりとすきなことを呟いています。

3月11日からが始まり。

今日は3月11日、5年前と同じ金曜日だ。

わたしは皆があって当たり前、と思うものに仕事で携わっている。
あの日から数カ月は「当たり前」を提供することができず肉体的にも精神的にも追い込まれていた。
だからわたしは3月11日という当日よりも、3月12日からの数カ月の方がとても印象に残っている。

当然、現地にいた人たちの方がよっぽど苦しい。
当時東北の事務所にいた同僚の弱った声と悲痛なメールは、とてもとても苦しかった。
映像で見る津波の怖さや社内で回ってくる店の状況報告、どれもこれも見るのが怖かった。
仕事をしている間はそういったものから感情を切り離さないと前に進むことができなかった。

少しでも当たり前を復活させたいと思ったけれど、どうにもならないこともある。
車を走らせるだけの燃料がない、商品を作る原料もない。
現地ではない東京や西日本にも影響は出た。
それを「うちは災害地じゃないんだからどうにかしろ」と怒鳴る営業もいた。
部長クラスの人間でさえそう言った。
深夜12時過ぎに鳴り響いた電話を取り対応しどうにもならないことを伝えても取り合ってもらえず、別の人間に変われと言われ、他にはもう誰も残っていないと言えば、「俺たちが働いているのにお前らは帰って遊んでいるのか」という営業もいた。
誰もが違うフィールドで戦い一つの目的のために働いているはずなのに、そんな言葉にわたしたちは苦しめられた。
今ではあの時はそういった怒りを誰かにぶつけなければいられなかったのだと理解はできるが、わたしはその電話を切った時に泣いた。
辛かった。


起こった日の事は忘れない。
4時間近くかけて家まで歩いて帰ったことも忘れない。
けれどその次の日の朝、やりきれない感情とともに仕事へ行きそこから24時間勤務のような怒涛の日々が始まったことの方がわたしは忘れないと思う。

遠い異国での出来事である9月11日や、今回の3月11日の震災は、その日だけが取りざたされる。
この日だけ何かを祈り考えれば良いと、そう思って終わってしまう。
でも実際の現地の人からしたら3月12日からが辛く苦しい日々の始まりなのだ。
そしてそれに関わる多くの人たちにとっても。

「その日」として、忘れてはならない。
けれど、その先の日々の事も思い出し、「当たり前」が早くたくさんの人の元に届くように考え行動をできたら、と思う。